民間部門との相互作用無き芸術祭は無意味である

  1. 現代美術は自分の仕事を美術史に刻むゲームである
  2. 美術史は民間部門と公共部門の相互作用を経て合意形成される
  3. ゆえに民間部門との相互作用無き芸術祭は無意味である


あいちトリエンナーレ2019にて「表現の不自由」をテーマにした展示が中止となった一件が議論を呼んでおり、新たに海外作家が展示の辞退を示唆するなど騒動は未だ収拾する様子がありません。

現在も様々な観点から議論が続く一方、個人的に重要と思う現代美術の制度的観点に基づく議論が明らかに不足していると感じたため、これを機にあいちトリエンナーレを含むいわゆる芸術祭全般について自分が思う所を記したいと思います。

現代美術は自分の仕事を美術史に刻むゲームである:

そもそも現代美術に携わる人達は一体何を目的に活動しているのでしょうか。

過激なパフォーマンスで物議を醸したり、大金を稼いだりすることはあくまで手段に過ぎず、その最終的な目的は自分の仕事を美術史に刻むことにあります。

ここで言う「美術史に刻む」とは一般に想像されるより遥かに長期的なもので、例えば本人の死後100年以上を経ても企画展が開催されたり、研究者が引用してくれるような状態を意味します。

この目的はアーティストに限らず、ギャラリストはマネジメントする作家達、批評家は評価する動向、コレクターは所蔵する作品、キュレーターは企画する展示…と誰もが自分の仕事を美術史に刻むべく (本人が自覚しているか否かに関わらず) 長く過酷なゲームに参加しているのです。

美術史は民間部門と公共部門の相互作用を経て合意形成される:

ここで当然気になるのは、美術史がどのように形作られるか、言い換えればアートはどのようにしてアートとなるかでしょう。

複雑な力学の中でも特筆すべきは現代以降の美術史が、ギャラリーやオークションを通じて作品が私的に取引される民間部門と、公立美術館や (トリエンナーレ含む) 芸術祭などにて作品が公的に展示される公共部門との相互作用によって合意形成される点です。

相互作用とは具体的に、

  • 批評や市場の競争にさらされながら民間部門で様々な美が育まれる
  • その中から選定された作家の作品が公共部門で展示され誰でも観覧可能となる
  • 公共部門での展示実績が作家の民間部門での評価に再び影響する

という、民間の文脈に基づく評価軸を公共の文脈が補強するプロセスによって展開されます。

*私的に育まれた美術的価値を公にする役割が含まれることが、美術館や芸術祭に税金が投入される主な理由です。

このように美術史の合意形成には民間部門と公共部門の両方が必要であり、どちらか一方のみでは決して成立しないのです。

ゆえに民間部門との相互作用無き芸術祭は無意味である:

そのためもし芸術祭が上記の相互作用を欠く閉じた状態ならば、出展者側は将来の美術史に刻まれる可能性が高まらず、来場者側は民間部門で十分な評価を得た作品が観られず、結果として誰も得しない一過性のイベントとなってしまうことでしょう。

私はあいちトリエンナーレ2019の一件も、本質的な問題は展示内容ではなく民間部門の軽視だと考えています (無視しているとまでは思いません)。

なぜなら民間部門でしっかりと鍛えられた (「アートである」合意をある程度得た) 企画展示はたとえそれがどんなに過激な主題を扱おうと、意見が異なる人達にも訴求する一定水準以上の強度と新奇性を持ち、かつ抗議活動が起きた場合の対処も準備しているものだからです。

*実際、表現規制に対するアンチテーゼや政治批判は現代美術が良く扱う主題の1つです。

そしてさらに強調したいのは、政治家を巻き込んだこれだけの騒動にもかかわらず、民間部門との繋がりが希薄な本件が美術史に刻まれることはほぼ確実に無いということです。

「表現の不自由展・その後」が展示中止になった事実そのものがアートになるという主張が散見されますが、本件がプロパガンダでなくアートと認識されるためには、展示中止がある種の物語として作品の市場価格をさらに高めるような構造の担保が必要です。

炎上が起きたこともさることながら、それが現代美術の観点からはほぼ無意味な炎上であることはもっと知られるべきと思います。

おわりにでは何が必要か?

現代美術の制度的な議論に徹するこの記事は、あいちトリエンナーレ2019の芸術監督やキュレーター達の責任追求が目的ではない旨を最後に付記したいと思います。

というのも、現代美術は国内の民間部門が未だ十分に成熟しておらず、そのような状況下で芸術祭の質と来場者数を両立させること自体がそもそも至難の業だからです。

このような現状を鑑みると、リーディングミュージアムに関する過去記事で述べたような、公共部門ではなく民間部門を育成するための政策が今後一層求められることでしょう。

今回の騒動が個人や政府の糾弾に留まらず、長期的に現代美術に資する政策や制度改革に繋がることを陰ながら期待しています。