- まずは度を越したパクリに呆れる
- しかし死に様へのこだわりに作家性を感じる
- つまり漫画家としてあがいているのではないか
サムネイル出所: 集英社 / 芥見下々
最近ようやく呪術廻戦を全部読みました。
その後作品ファンの友人とも感想を色々話しまして、結構思うところがあったので備忘録を残しておきます。
まずは度を越したパクリに呆れる
多くの人が指摘しているように、第一印象はハンター ✕ ハンターとブリーチ (とその他いくつかのジャンプ漫画) のパッチワークでした。
ほうぼうで比較されているので詳細は割愛しますが、この内容は明らかにオマージュの域を超えています。
コマ割りやトーン、線やベタの使い方など、技法の部分まで丸パクリです。
正直いって同世代がこういう制作をしている事実はだいぶキツい。
この人は新しい表現の追求から逃げているのではないか?こんなことをして冨樫先生が喜ぶと思っているのだろうか?
こういうお金の稼ぎ方、生き方をしていて恥ずかしくないのか、とすら思いました。
しかし死に様へのこだわりに作家性を感じる
他方でコンセプト面、とくに死に様へのこだわりには作家性を感じました。
作中で主人公は何度も正しい死とは何かについて考えていますし、そもそも第1話で爺ちゃんから「お前は大勢に囲まれて死んでくれ」的なことを言われています。
他のキャラクターについても、味方側で言えば釘崎や五条、敵側で言えば一つ目の火山のやつなど、死ぬ瞬間の満足した描写にはかなり力を入れているように見えました。
*人の心とかないんか?の人やずっと生き続けてきた天元さまの存在も、逆の面から死に様の重要性を強調しているように思います。
こうした死に様で生き様を魅せるスタイルからは、どこか作者の「そいつがそれまでどうだったのかはさておき最期が幸せなら良いじゃないか」という人生観を感じます。
つまり漫画家としてあがいているのではないか
技法的には既存ジャンプ漫画のパッチワークで、コンセプト的には死に様で当人の幸せを魅せようとしている。
作者はどういう思いでこの作品を描いているのでしょうか。
僕は、結局最後に自分の満足する表現に辿り着けば良いと考え、そこに向けてあがいているのではと解釈しました。
この作者はジャンプ愛があるからこそ、表向きはオマージュ (の域を超えたパクリ) を楽しんでいるように見せているが、本心ではやっぱり新しい表現を生み出して先人に応えたいという夢をちゃんと持っているのではないか?
にもかからず今は、既存のジャンプ的漫画 (天元さま) を生き長らえさせるだけの存在 (星漿体) になっているから、本人も辛いのではないか?
と感じたのです。
*だいぶ願望が入った解釈ですが、222話で羂索が天元さまに生きている間に自分の理想に一歩でも近づこうとすることの大切さを説く (というかぼやく) シーンなどをみると、そう信じたくなります。色々な人の身体と能力を乗っ取って長い間生きてきた羂索は、漫画家としての作者の一面の投影にも思えます。
まとめ
最初はパクリに呆れたけれど、きっと作者本人はそれを自覚した上で一生懸命あがいている。
そう解釈すると呪術廻戦は面白い作品に見えてきます。
ともかく芥見先生には最後の最後に自分の表現を見つけて、満足してしっかり死んでもらいたいなと思います。
追記
これを書きながら、昔コンビニ前で幸せとは何かについて知り合いと雑談したことを思い出しました。その人は当時
「最期の瞬間が幸せだったら、それまでの全部も幸せだったって思えるんじゃないかな。僕なんか仮にそれまでが最悪でも、病院のベッドで死ぬ寸前に看護婦さんがこっそりおっぱい見せてくれたら “おっ、幸せな人生だった” ってなるもん」
と言っていました。