スーパーフラットのコンセプト部分を忘れないで欲しい

最近の日本の美術業界、とくにアニメ・漫画的な美術表現を模索する人たちに向けて、思うことを備忘録的に残します。

スーパーフラットは現代日本を示すコンセプトである

スーパーフラットは、日本の現代美術家である村上隆によって2000年に提唱されました。

詳しくは『SUPER FLAT』や『芸術起業論』を参照ですが、ざっくりいえば

  • アニメや漫画は、アメリカの庇護のもとで去勢され自分で評価軸を作ることができなくなった戦後の日本社会で奇形的に発展した文化である
  • アニメや漫画は、単に日本の伝統的な平面絵画とつながりがあるだけでなく、平和で階層が薄まりみんなが幼い現代日本の社会構造をも反映している

という壮大な主張です。

このコンセプトによってアニメや漫画を現代の日本社会をぎゅっと詰め込んだ美術表現に落とし込むことに成功したからこそ、村上作品はポップカルチャーではなく「現代美術 (contemporary art)」として評価されたわけです。

しかしこの部分は忘れられつつあるようだ

村上さんがスーパーフラットをぶちあげてから25年、さまざまな人たちが新たなアニメ・漫画的な美術表現の可能性を模索してきました。

たとえば「カオス*ラウンジ」が新しいメディアやテクノロジーに関する議論と融合させたり、「二次元派」が現在の東アジアのポップアートとシンプルにくくってみたり、「キャラクター絵画」が表現主義やフォーマリズム的な方向と接近したり…

しかし筆者は、こうした過程でスーパーフラットのコンセプト部分が忘れられつつあることに危機感をもっています。

見た目や技法に気が行きがちだからか、コンセプトが個人的なものになりがちだからか、あるいはそもそも何も考えていないからか…。その理由は複合的だと思いますが、何かを変えるたびに「作品に現代の日本社会をぎゅっと詰め込む」という (現代美術としての) コアな部分がだんだんと無視 or 弱まっているように思えるのです。

忘れると結局スーパーフラットに取り込まれる

これの何が問題かといえば、コンセプト部分を理解して更新しない限り、新たなアニメ・漫画的な美術表現は結局スーパーフラットに取り込まれてしまう可能性が高いのです。

どういうことかというと…

  • 新たな美術表現が同時代性を見出しにくい
    •  → 現代美術として評価することが難しい
      •  → 自分たちで評価軸が作れない
        •  → そういう状態自体がスーパーフラットだよね

と、現代美術的な解釈において結局スーパーフラットに依拠してしまうのです。

言いかえれば、せっかく新たな表現を発表してもスーパーフラットがもつ「評価軸を作れないこと自体が評価軸である」という入れ子構造に回収されるため、美術史は一見変わっているようで何も変わらないのです。

*余談ですが村上さんの博論のタイトルは『美術における「意味の無意味の意味」をめぐって』だそうで、なのでおそらく村上さんは学生時代からこういうことに関心があったのでしょう。

したがって本当に変えるためには、スーパーフラットのコンセプト部分を踏まえたうえで、それ以上の強度で「作品に現代の日本社会をぎゅっと詰め込む」新たな芸術運動を興す必要に迫られるはずです。

少なくとも作り手は、無視して全然違うことをやろうとしても勝手にスーパーフラット扱いされる構造ができあがっていることに気づくべきでしょう。

おわりに

以上が「スーパーフラットのコンセプト部分を忘れないで欲しい」という主張の背景です。

これはゼロ年代の日本の現代美術をみてきた人にとっては当然の内容かもしれませんが、そんな人も最近はかなり減ってきたのでここにまとめておきました。

では具体的にどうすればよいのでしょうか?

それについては、次の投稿で関連する持論を紹介しようと思います。