日本の現代美術家は失われた30年の表現に向き合え


前回の投稿ではスーパーフラットのコンセプトを説明しつつ「作品に現代の日本社会をぎゅっと詰め込む」新たな芸術運動を興す必要性を説きましたが、今回はその具体例となる持論を示します。

現代美術は定義として同時代性が必要である

前回と重複しますが、現代美術は contemporary art である以上、その評価軸においては定義として同時代性が必要となります。

言い換えれば、現代を鋭く解釈して強度のある作品に落とし込む技術が求められるのです。

表現手法や素材の制約が無い一方で同時代性は必須であり、国内発信ならば日本社会が対象だとなおよいでしょう。

村上隆作品は、スーパーフラットでここをしっかりおさえたからこそ世界的に評価されました。

失われた30年はきわめて同時代的な題材である

現代の日本社会を解釈するうえで、筆者は失われた30年という題材を非常に重視しています。

少子高齢化と人口減少に歯止めが効かない日本が直面する社会・経済の長期停滞。

明らかに制度を変えねばならないのに先延ばしして、誰も責任を負おうとせず、その結果まだ生まれていない将来世代に負担が押し付けられていく。

このような未来を犠牲にした現状維持への危機感は、多くの現代人が心のどこかでうっすら共有しており、その危機感はきっと実感を伴う強度のある作品へとつながるはずです。

それにもしスーパーフラットを平和で豊かな時代だからこそ成立したコンセプトとするならば、いよいよそんな余裕もなくなってきた現在においては、その時代の背後でずっと黙殺されてきた先延ばしや停滞と向き合うことが「作品に現代の日本社会をぎゅっと詰め込む」次の手段たりうるのかもしれません。

*これは現代美術として制度設計をやれという話ではなく、失われた30年への危機感を表現の種にしようよという話です。筆者の実践はあくまでいろいろあり得るアウトプットの中のひとつです。

個人的には、この停滞が世界史的にも前例がない水準であることを考えると、失われた30年を生きた人間の思いを後世に遺すことは日本の現代美術家の責務であるとすら思います。

しかし現代美術家はこれに向き合っていない

にもかかわらず、少なくとも自分が知る限りでは、こうした考えのもとで強度がある作品を制作されている人はまだいません。

多くの作品はそもそも同時代性を意識していない (i.e., キュレーターや批評家に丸投げ) し、意識しているだろう試みもそのほとんどが

  1. 時事ネタ
  2. 新しい技術の採用
  3. 米英トレンドの後追い

のいずれかまたは組み合わせです。

これらが無意味とは思いませんが、1, 2 は同時代性の手段としては安直だし、3 は猿真似なのでおそらく後世からはフォーヴィズムやキュビズムの影響を受けた戦前の洋画家的な位置づけで評価されるのが関の山でしょう。

*猿真似という意味ではスーパーフラットに回収される可能性もあると思います。

このような状況下で、失われた30年という日本の地に足がついた重要な題材を現代美術家たちがまったく扱わない (というかそういう題材が芸術になると認識できていない) のは、歴史にとって大きな損失だと感じています。

*では一体なぜ日本の現代美術家たちはこれまで失われた30年を表現してこなかったのでしょうか?筆者は、彼らの多くが (i) 社会・経済的観点で時代を捉えるのに必要な教育を受けていない, (ii) 金持ちの家に生まれているのでそもそも危機感を共有していない, ことが主な理由だと推測しています。

おわりに

以上が「日本の現代美術家は失われた30年の表現に向き合え」という主張の中身です。

こういう根っこの部分を作り手自身が話すのは無粋だし、自分が草分け的存在になれるように黙っておこうとも考えましたが、人材不足と衰退が著しい国内の現代美術業界においてはむしろ積極的に発信すべきと思い執筆するにいたりました。

これはあくまで自分の制作スタイルであり広く誰にでも適用可能とは思いませんが、少しでも共感してくれる人がいれば幸いです。